「近くのキリスト教会」

を気にするようになったのは、家人がまだ入退院を繰り返していた頃。家の近くの煙草屋へ毎朝煙草を買いにゆき、その場で灰皿を借りては1本吸っていた。病院からの連絡にすぐ対応出来る様、カフェイン入りのタブレットを舐めながら朝を迎え、その1本が1日の区切りになっていた。ある日、向かいの教会に大きく書かれた文字に気付く。そこには「なぜ泣いているのか」とあった。牧師の次回講義の予定らしかった。数日間、その言葉を反芻しながら病院と自宅を行き来する。その後、気を付けて見てゆくと、かなり硬派な問いかけが続き、そのたびにそれらを勝手に受け取りつつ介護の日々も続いた。たとえこの教会の信徒になっても、決して楽にはなれないだろう、それよりももっと重い問いと真正面から向き合うしかなくなるであろうことが推測され、故に信頼に値するようにも思え、ぼんやりと田中小実昌のことを考えたりもした。
あれから情況も変化した。随分良くなったと言えるだろう。幸福や不幸、意味について考えることなどもう無い。乾いた砂を両手ですくっても、指の間からこぼれ落ちてゆくようなもの。先週、再び「なぜ泣いているのか」の張り紙を眼にし、1年半の月日を思い起こそうとするが出来ない。
1クールが終わったのだ、とだけ思う。
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